ミミタコしたら金氏

田園交響曲を聴きながら感じたことは、ひと昔前のドイツ・オーストリア系巨匠のCDで聴き飽きた曲を金氏のライブで聴き直すと楽しいぞ、ということだった。先程から繰り返す通り、金氏のめざす音楽はシンプルで細やか。前回のブラームスでも今回の古典派でも、これまで固定観念に埋もれて見えにくかった楽曲の姿が聴き手の前に自然に立ち登ってきて、「へぇ、この曲にはこんな一面もあったんだ」と新たな視点を得られた気分になった。
この音楽性で、いっぺんコンテンポラリーも聴いてみたいな、なんて思ったりして。

モーツァルトも優しい

リンツ交響曲も、爽やかかつ繊細な金氏の音楽作りが徹底した演奏だった。この交響曲には、リズムを強調して躍動感溢れる音楽を立ち上がらせるアプローチも可能なのだろうけれど、金氏は、ふわりとした身軽な響き(しかし、痩せてはいない)にチャーミングできめ細かな歌を乗せることで、逆に生命感を演出しているように聴こえた。音楽への丁寧なアプローチが隅々まで生きていて、なんとも魅力的。爽やかで繊細な丁寧さの魅力…さながら清純派美人女優。(大雑念)

ハイドン再発見?

実を言うと、私はハイドンにはあまり馴染みがない。所有しているCDはモーツァルト以降に偏重していて(バッハは唯一の例外としても)、よく考えてみるとハイドン交響曲がおさめられたCDはどこを探してもない状態なのだ。現代の方には、カーターやベリオ、ペンデレツキなど、御存命中の作曲家までどこまでも延びているのだが…。
そんな前提知識で言うのもなんだが、金氏のハイドンを聴いて感じたのは「へぇ、ハイドンって、こんなにロマンティックで、ドラマティックだったんだ…」ということだった。なんとなく、四角四面で面白みのない予定調和の音楽だと勝手に思っていたからなおのことだったのかもしれない。
金氏は、オーケストラの響きをシンプルにそぎ落すと同時に、アティキュレーションをかなり注意深くコントロールして、ニュアンス豊かな音楽を作り上げている。その音楽の表情は「ひとなつっこい」とさえ言いたくなる程だ。テレビで見る金氏の、大阪弁でちょっとぶっきらぼうな喋り方の雰囲気からするとちょっと意外なくらい。(雑念?)
特にロンドン交響曲の最終楽章は、モーツァルトの音楽にも通じるようなドラマチックさと上品さを兼ね備えた魅惑の音楽に仕上っていて、思わず「おお、ハイドンもいいかも」と引き込まれてしまった。

ウィーン古典派

金氏は2年前から大阪センチュリー交響楽団と1年単位でテーマを定めた連続演奏会をおこなっている。2年前はウィーン浪漫派と称してブラームスシューマンなどをとりあげ、昨年はウィーン幻想派と称してシェーンベルクマーラーをとりあげていた。今年のテーマはウィーン古典派で、とりあげられる作曲家はハイドンモーツァルトベートーヴェン。今夜は連続演奏会の2回目にあたる。

今日の私は雑念だらけ

金聖響氏の指揮を聴くのは今日で2回目。2年前に同じ楽団でブラームスの第1と第4の交響曲を演奏するのを聴いた。目から鱗が落ちる程、見通しが良く、すっきりとした響きでスタイリッシュにまとめられた演奏が非常に印象に残っている。
ただし、この御方、私が学生時代から好きな某女優さんの“元彼”と噂されているオトコなので、今日の私はまったくもって雑念のカタマリであります。一生懸命それを振り払いつつ、音楽に集中しなくては。

特に左手協奏曲とダフニスが魅惑的

左手のための協奏曲の独奏をつとめた菊地洋子さんは、スラリとした長身の、笑顔が素敵な美女。演奏は意外な程に力強く、鍵盤を力強く押し込んでいくような骨太さが井上氏の引き出すオーケストラの響きといい相性。ふむふむ、こんなに熱いラヴェルもあるのか。
今夜のメインともいえるダフニスとクロエ第2組曲の冒頭は「夜明け」と題された音楽で、ゆらめきながら徐々に膨らんでいく管弦楽の響きが描写する靄のなかから、鳥の声を模したフルートやヴァイオリンの短い歌がスッ顔をもたげ、やがてハープの神秘的な音色とともに日の出が訪れるという、精緻極まりないオーケストラ曲だ。私は、井上氏の先生のひとりであるチェリビダッケが演奏するこの部分をCD(海賊版だが…)で聴いて、クラシック音楽の世界から抜けられなくなったという経験がある。
井上氏が描き出すこの部分は、また一種独特だった。なにやら粘性の高い液体がヌヌヌッと波となって押し寄せて来るような、「視覚的」とさえ表現したくなるような不思議な感覚に襲われたのだ。大人数で構成されているはずのオーケストラが、ひとつの得体のしれないネバっこい物体となって、眼の前でゆっくりとのたうち回っているようだった(変な表現で申し訳ない)。この文章を書いている今でも、あの瞬間、あの感覚をはっきりとした視覚情報として思い出せるように感じるのは、改めて考えてみるとなんだか面白い感覚だ。